母の献眼で思うこと

母の献眼で思うこと
   

                     ドナー家族(ライオンズクラブ会員)

 私の母は、岩国市から車で約30分かかる山間の静かな小高い丘の上にある療養型施設に入所していた。今日は、容態によっては徹夜になるかもしれないと思いながら病室に着いた途端、病室から看護師さんが慌てて出てきて、私を見るなり「お母さんが亡くなりました。」と言われて、私は頭が空っぽになったような気がした。
 病室では、母が力なく横たわっており、まず、何をしたら良いのか一生懸命に考えながら母の手を握りしめて呆然としていた。そうこうしていると、医師の死亡確認に続き、看護師さんによる身体の清拭を告げられて退室した。退室してやっと頭が働き始めた。「そうだ、まず、関係先に電話しなくては。」「関係先はどこか。」「そうそう、その前に葬儀社を決めなくては。」
 落胆の気持ちと焦る気持ちが交錯して考えがなかなかまとまらない。分厚い病院の公衆電話用の電話帳で葬儀社を探さねばならない。その上、お寺の住職のアポイントも必要だということで手間は取ったが、なんとか必要な手配を終えた頃に、母の身支度ができたとの連絡があって、再度、母と対面した。痩せ細った母を見ながら、一安心したように思える母の顔を見ながら、「闘病の苦しさから解放されて良かったね。」と声をかけた瞬間、献眼の2文字が頭をよぎった。
 自分はライオンズクラブで何年も献眼活動をして、人に献眼登録を奨めてきたのだ。今まで老弱男女に呼びかけをしてきて、若い人の登録よりは高齢者への登録こそが最も有効な登録だと痛感してきた自分。その自分が高齢者である母の献眼に協力しない訳にはいかない。でも、母は、喜ぶだろうか。母が健在のとき、献眼の話をしたけれど、登録する前に入院してしまい、さらに急速に痴呆が始まり、母の最終的な意志を確認するまでには至っていなかった。どうしよう。生前、母の献眼について話し合ったときは弟妹みんなが同意をしていたけれど、現実に、自分たちの考え一つで献眼するかしないが決まるとなると、さすがにみんなの気持ちはまとまらなかった。献眼のための摘出の限界時間は大体死後6時間から10時間だ。まだ、時間は十分にある。再度みんなで確認し合った。母はいつも人のためになりたいと言っていた。その母の思いの感じ方は各人で温度差があるけれど、眼が見えない人が見えるようになるという喜びが、母の献眼で可能となるなら私たちは何を戸惑うのか。母の思いを実現するために献眼しようと話がまとまり、バンクに電話をすることになった。
 電話番号は?、山口市の電話帳なんて病院は置いていない。病院の看護師さんに聞いてもわからない。これでは一般の人たちが献眼できるわけがない。最後の見送りに向けてやらなければならないことが多いこのような状況で、何人の人が献眼という行為に気づくことができるだろうグラジオラス.jpgのサムネイル画像か。
 病院のシステムの中で献眼のことも取り入れたなら、より確実にスムーズに実施されるだろうに。特に、老人に対しては、献眼するか否かの決断には十分な時間があると考えられる。例えば、老人ホーム入所中あるいは病院で延命治療を続けるかどうかの最終判断を迫られた時などに、献眼の意志があるかどうかが確認できていれば、献眼できる角膜であることも検査でき、確実に献眼が行えるのに。その旨はカルテ等で申し送りすれば献眼の連絡もスムーズにいくのに。今のままでは、忙しさに紛れて献眼行為に気づかなくて献眼できなかった場合、その本人を含めて献眼の機会損失に対して後悔することになりはしないだろうか。
 そのとき妻が、献眼登録カードを偶然持ってきたと示してくれた。そうだ。自分も妻も献眼登録していたのだっけ。しかし、自分は家に置き忘れていたのだ。なんと迂闊なことか。早速、バンクに電話すると直ぐに応答があり、素早く手配いただいた。電話のやり取りだけでも必要な質問や処置事項がたくさんある。バンクの方も大変だろうし、聞かれる方も身内を亡くした直後で気力も失せており、問われ方によっては感情を害するときもあるだろう。(例えば、感謝状が欲しくて献眼するのではないけれど感謝状を贈ってもよいかとの質問は微妙な質問だと思う。)質問等を一覧表にしてFAX等でやり取りする方が気分的にも落ち着いて応答できるようにも思える。
 眼球摘出場所について、バンクからは何処でもよいと言われたが、隔離された部屋で、しかも、摘出しやすいベッドがあって、施設も充実している病院で行うのが最適と思い、何とか病院にお願いして病院で摘出を行うことにした。  
 遺体の引き取りを葬儀社に依頼したため、何時に引き取ればよいのかとの問い合わせにも応えねばならず医師が到着するまでの時間は、気にかかることではあった。摘出を行う医師は山口大学付属病院から直接来られるとのことで到着まで約1時間半程度かかると聞いていたが、高速道路のインターチェンジの近くに老人保健施設があるのにタクシーの運転手が道に迷って相当の時間がかかった。宇部の人が夜中に岩国の場所を特定すること自体無理があるとの思いを強くした。主要なところを数カ所ゾーン化して迅速に対応できるようにした方がよいのでは。まずは、国立、市立と言った公立病院の眼科医が摘出できるような体制ができないものか。
 到着した医師の方々は、若い男性1名と女性2名のチームで手際よく、時間通りに摘出を終えられた。対応も丁寧だった。立派な角膜の提供を生かすためにも早く持ち帰り、処置をしますとの言葉を後にして帰って行かれた。これから宇部まで帰られたら深夜になることを思うと、「本当にありがとうございました。ご苦労様でした。」と頭が下がる思いであった。
 弟が摘出の様子を見たいと摘出に立ち会った。その感想は「俺は献眼してもよいと思うが摘出を見て献眼はしたくなくなった。」という。やはり遺体にメスを入れることでもあり、親族は入らないで医療関係者にお任せをした方が良いと思った。母は90歳で数ヶ月間肺炎を患っていたし、軽度の白内障もあったので、献眼が可能かどうか心配していたが、摘出して、献眼ができる眼であったので、役に立つ献眼ができたとの思いで親族など居合わせた皆が本当に安堵し、悲しみの中にもある種の嬉しさがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。摘出後の母の眼の周りは傷もすいれん.jpgのサムネイル画像なく、きれいに整えてあった。妹は義眼がどのようなものかと興味津々だったが、眼を上から押さえても柔らかく、義眼を入れたとは思えないと言った。我々と家族や他の親族の感想も同様であった。葬儀に際して献眼が何の支障もなく、誰も献眼したとは気づかないのではという者もいた。      
 葬儀には、バンクから献花と弔電をいただき、所属ライオンズクラブの代表者による会葬と感謝状を読んでいただいた。このような対応をいただき、恐縮しながらもこのことは献眼のPRになったのではないかと思っている。一人で事務局を担当しておられるバンクの方のみでは、葬儀までの短い日取りの中での対応は難しいと思う。ライオンズクラブの関与は重要との認識を新たにした。
 葬儀では、わざわざ住職から「母の献眼は仏教で説く布施にあたり、これを慈悲の布施という。お母さんは良いことをされた。」との説法をいただいた。会葬者の皆さまの中にはこのような立派な行為を自分もしてみたいと言われた方もおられた。また、親戚の皆も母の献眼に対して心を打たれたようで、外見では全く解らない眼球摘出に興味をもってくれた。後日、やまぐち角膜・腎臓等複合バンク理事長からの感謝状が届き、厚生労働大臣からも四十九日法要に間に合うように感謝状を贈っていただいた。バンクの事務の方のご尽力には心から感謝している。しかし、厚生労働大臣にまで感謝されるのであれば、今よりももっと公共機関を利用して献眼の実績があがるシステムを作ることが必要との思いを強くした。
 後日、バンクから電話があり、母の角膜は2名の方々に無事移植されたとの報告があった。今は、母も自身の献眼が本当に役に立ち、かつ、皆さんに受け入れていただけてきっと喜んでいると、妹や弟、家族たちと話し合っている。そして、私たち親族の心になんとも形容しがたい温かい気持ちの芽生えに、今までの自分とは違った人間になれたような気がしてならない。
(注:バンクとは(財)やまぐち角膜・腎臓等複合バンク)愛ちゃん.gif


2011年9月29日 09:55 | カテゴリー: 提供者・移植者の声
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