ドナーとご家族に感謝の日々

ドナーとご家族に感謝の日々
   

(平成23年2月 臓器移植に関する会議の講演から)
                                  献腎移植者 匿名

 約6年前の暮れに山口大学医学部付属病院で献腎移植を受けました。当時、還暦前の59才8ヵ月でした。前々から60過ぎたら移植はもう止めようと思っていたので、59才になったときには、登録もしないでおこうかなと思ったのですが、今年は最後だからと思って、一応寄付のつもりで登録しました。それが運よく献腎移植をうけることにつながりました。
 振り返ってみると、10代後半の頃から軽い腎炎があり、20代で結婚した後は、当時の主治医から妊娠出産は無理と言われていました。でも、老後に子どもや孫に会えない生活というのが自分の人生の中では寂しいなという気持ちがありましたから、無理して出産をしました。するとだんだん腎炎が悪化、一人娘が8才で私が36才になった昭和61年の3月に透析が始まり、3ヵ月後の4月に母から生体腎移植を受けました。母は私のためにとても日頃の生活に注意していたので、移植を受けた腎臓の状態も良く、しばらく安定した状態を保っていたのですが、平成8年、私が47才の時にまた再透析になってしまいました。それから、毎年毎年献腎移植希望登録をしていました。その頃ほぼ叶わないかなという大きな夢がありまして、それが山口大学医学部付属病院での献腎移植、それと看護師になった一人娘に入院時の看護をしてもらうことでした。当時その娘は千葉大附属病院で看護師をしており、山口県にはもう帰らないと言っていたので、看護をしてもらう夢ももう叶わないと思っていたのですが、3年ぐらい経って、千葉大を辞め、1年間ゴールドコーストへ留学すると言う電話が1本ありました。娘が向こうに行っている1年の間に、私も透析を受けていましたが3回娘の所に行きました。1年後に帰国し、住むところがないと言うので、仕方なく実家に帰って来ました。就職先は市内で探したけど市内の開業医にはどこも採用してもらえず、運よく山口大学に就職できまして、それから4・5年経つか経たないうちに、今回の献腎移植のお話をいただきました。
 今でもはっきり覚えていますが、平成○○年○月○○日、夜中に電話がありました。寝室で寝ていて、ベルがずっと鳴ることに気付いていましたが、こんな夜中の電話は変な電話だと思い電話に出ませんでした。でもあんまりにも長かったのでちょっと気になり、リビングに行って花1.jpgナンバーディスプレイを見たのですが、やっぱり知らない電話番号でした。それでも気になったから自分の登録した電話番号を見たのですが、やはり知らない電話番号で、それでも気になったから私から掛けようかなと思っていたらまた電話がなりました。それが准教授の土田先生からでした。先生はドナーが現れたけど、私は3番目と言われたので、今回の移植手術は無理だろうとあきらめていたら、夜が明けてお昼前にまた先生から電話があり、2番の方がキャンセルされたことで、私に順番が回ってきたと言われました。こういうこともあるかと思いながら、もちろん急いで山大に行きました。娘夫婦もすぐ来てくれました。入院後すぐに手術があるのかなと思っていましたが、ドナーの方の状態が安定しており、一週間手術はありませんでした。その間、内山先生はドナーの方の病院につきっきりで行ってらっしゃいましたから、先生とお話しすることはできなかったのですが、その間に私もいろいろ検査を受けました。母からの生体腎移植を受けていたので抗体ができていました。また、一か月前の11月には胆石の摘出手術をしていたのですが、胆石の影がまだ残っているということで、年齢、抗体、胆石の影等、条件的にはあまりいい状態ではなかったんだと思います。入院してから1週間後の12月21日、日曜日の4時から移植手術を受けました。だから私は今、元々持つ自分の腎臓、8年前に亡くなった母の腎臓、今度のドナーの腎臓と計4つの腎臓を持っています。
 手術後の経過は前回の生体腎移植の経験から知っていましたが、やはり手術直後は少ししか尿が出ませんでした。また、水分制限もあったので、尿は100cc出るか出ないかぐらいでした。けど年が明けてお正月になった途端に今まで100ccしか出なかった尿が300cc出るようになって、透析が急きょ中止になりました。元日に夫と娘が会いに来てくれたんですが、「お母さん今日透析どうしたの?」って言われて、その家族に「もう今日から透析しなくていいようになったよ」と、うれし涙で報告した覚えがあります。今も思い出すと涙が出ます。翌日1月2日には今度は740cc尿が出て、3日には1460cc、5日には2400ccも出るようになったので、ドナーの腎臓がすごくよく働いているということが分かりました。尿が出るようになってから水分制限がなくなるとともに、古い角質がもうぽろぽろぽろぽろ毎日着替えても、その皮膚が付いているくらい剥がれました。もちろん点滴の管はいっぱい付いていましたが、1月17日に結婚式を挙げてなかった娘夫婦の結婚式があったので、1月16日には半分無理を言って点滴を抜いてもらい、携帯尿カテーテルを足にくくり付けて外出し、着物を着て無事結婚式には出席することが出来ました。その日の夜からは尿カテーテルも無くなったのですが、まだ膀胱は小さいので今度は頻尿で、しょっちゅうトイレに行くようでした。しかし、トイレに行ける幸せというのもひしひし感じました。その後の経過も順調で腎生検もあり、左手の透析用シャントも外れましたが、サイトメガロウイルスに感染したので、それも治療して帰ろうということになって○月○日、術後50日に退院できました。桜.jpgその後、8月、10月とサイトメガロウイルスの治療の為に入院したのですが、○月の入院時には△月出産の予定で身重だった娘が、緊急入院してきまして、○月の末に帝王切開したんです。もちろん私は入院していたので、手術室で誕生しNICUに行く途中の初孫を見ることができました。透析中は左手にシャントがあるから孫を抱くということもできないだろうと思っていましたが、献腎移植を受け、シャントも外れたことで、安心して自分の初孫を抱けるという幸せ、本当にもうすごく感謝しています。ちなみにその初孫は私と干支、星座、血液型も一緒で、本当にうれしい気持ちでした。娘の入院中、私は朝夕の点滴のみで昼間は自由だったので、いつも泌尿器科から婦人科に娘の世話をしに出かけました。それまでは娘が仕事の帰りに毎日寄って私の世話をしてくれましたから、やっと私も娘の世話ができるようになりました。その後、△月のサイトメガロウイルスの治療も全部済んで、以後入院することもなくなり、今日に至っています。
 臓器移植制度があり、ドナーやそのご家族のご快諾があったこと、それと先生や医療スタッフの支えのお陰でこうして元気に体験発表もすることができるのですごく感謝しており、毎月ドナーの方の月命日にはお礼を言っています。
今も県内には献腎移植希望登録をしている方がいらっしゃいます。一人でも多くの方が早く透析から逃れて尿が出る普通の生活ができ、そして水分が自由に摂れる生活が一日でも早くできるように願っています。
今日はどうも御静聴ありがとうございました。

 


2011年9月19日 06:29 | カテゴリー: 提供者・移植者の声
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